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Old writing-1

河川・海上交通の発達とともに隅田川周辺に生まれた、今も残る問屋街


 隅田川に面した浅草蔵前は、幕府をはじめ、多くの大名たちの米蔵倉庫が群をなしていたことから蔵前との地名が付けられた。また、小名木川河口より永代橋にかけては、米以外にも雑穀、油、干鰯などの倉庫が立ち並び、問屋取引が活発に行われた。
 その背景には、河川舟運と海上交通の直結による全国的な水上交通網の発達が大きく寄与している。江戸において、実は幕府の水上交通の整備は表立っては行われていない。軍事的政略の元、河川の開削が行われ、舟運が活性化されたのだが、結果的にはそれが江戸と各地方を結ぶ流通機構を完成させ、廻船によって全国から物資が江戸に集められることになった。
 海運の発達に伴い、江戸に入る物資も種類が豊富になってきた。では、年間どれほどの量が江戸に届けられたのだろうか。最も重要な米は、関東東北一帯および関西方面からの分を含めておよそ三百万石。また大麦は約四十八万俵、小麦は三十七万俵、この他にも大豆九十万俵、小豆十四万俵、酒も関西から九十万樽、他地域から地酒が十五万樽ほど入ってきていたという。これらの物資は江戸市民だけでなく、参勤交代にて江戸で生活する大名たちによっても派手に消費された。当然、江戸諸問屋の繁栄をもたらしたのはいうまでもない。


 幕府の米の収蔵庫として造られた浅草米蔵の前の町々に、札差と呼ばれる商人が群をなして店を並べていた。浅草米蔵から支給される旗本御家人の俸禄米を、旗本らに代わって受取りから販売までを請け負う業者のことだ。
 俸禄米支給日、旗本御家人たちが給与の蔵米を受け取る際には、米蔵役所の入口近くに立つ大きなわら束に、あらかじめ配付された切米手形を竹串に挟んで差し、自分の支給の番までときには長時間も待っていなければならなかった。支給の呼出しがあるまで蔵米取の旗本御家人たちは、付近の米問屋の店先などで休んで時間をつぶしていた。
 そこで、札差なる業種が誕生した。札差は蔵米取より切米手形を預かり、代理として俸禄米を受取り、米問屋に売却した。札差料や売却手数料を差し引いた残りの現金が旗本御家人の手に届けられる。札差は蔵宿とも呼ばれ、札差は客である蔵米取を札旦那と呼んだ。
 札差は浅草米蔵前の米問屋であった者が大多数で、やがて旗本御家人が次期支給予定の蔵米を担保に札差から金を借りるようにもなると、札差は金融業者としても発展し、豪商にまでのしあがった。
 が、札差の繁栄は旗本の財政窮乏を意味し、旗本らの借金の金利が札差の豪遊や蓄財にあてられていたのだ。幕府も権力の弱体化を恐れ、それを見逃すわけにはいかなかった。まず寛政改革で札差は旗本の借金の半分を棒引きにされ、さらに天保改革でも弾圧された。そして明治維新後、旧武士の俸禄制度が廃止され、札差は没落を余儀なくされたのだった。