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Old writing-3

生類憐みの令により江戸に溢れかえった野犬を収容した「御囲」


 五代将軍綱吉によって「生類憐みの令」が出されたのは貞享四年(一六八七)のことだった。仏教の慈悲を政治に示し、人々に仁愛の精神を育成させようとしたものだが、きっかけとなったのは、綱吉の世子であった徳松が五歳で病死した後、世継ぎに恵まれなかったことによる。綱吉の母桂昌院が帰依した僧隆光が「前世において多くの生類を殺した罪であり、その罪を消し去るために天下の殺生を禁じ、また将軍は戌年生まれであるから、犬を大事にすれば幸運が開ける」と進言したのだ。以後、綱吉は犬を過剰にまで保護し、生類憐みの対象はやがて鳥や魚、さらには蚊や蝿にまで広がった。
 この生類憐みの令により、江戸では「犬毛付帳」といった犬の台帳が作成され、犬の飼い主には厳しい保護管理の責任が負わされるようになった。戌年であった元禄七年(一六九四)には、犬の愛護令がさらに多く出されている。しかし、飼っていた犬に事故が起き、責任が課せられることを恐れて、かえって捨てられる犬が続出するという状況を招いた。そこで幕府は同じく元禄七年、江戸市中の野犬を収容するために、四谷、内藤新宿、東大久保の地に犬小屋を設置することにした。
 だが、それでも野犬は収容しきれず、翌元禄八年(一六九五)、幕府は中野村にも新たに犬小屋を建設した。これが中野御囲と呼ばれるものだ。その後も拡張工事が続けられ、元禄十五年(一七〇二)には、中野村における犬小屋と関連施設の総面積は実に三十万坪にも及んだという。また、養育費を払うことにより、犬を付近の民衆に預けさせたことも知られている。
 そして、この生類憐みの令が廃止されるようになったのは、綱吉が死去し、六代将軍に家宣が就任した宝永六年(一七〇九)のことだった。犬小屋や施設も撤去され、養育金制度も廃止されたのだった。

 ところで、中野村では桃の字を含んだ地名が多い。現在の中野三丁目一帯は、昭和四十一年(一九六六)までは桃園町と呼ばれていた。八代将軍吉宗の命により、桃園がつくられていたことに由来する。
 吉宗は享保二十年(一七三五)、土岐美濃守に命じて、眺めのよい高台に御立場をつくらせた。その際、周囲に桃の木を植え、庶民にも解放されたことから、この桃園はやがて桃の花の名所となった。
 寛保三年(一七四三)には、御立場の後ろに俗に「大名山」と呼ばれた小さな丘を築き、憩いの場としている。また、かってこの一帯には桃園川が流れ、大名山を下ったところに桃園橋が架けられていた。将軍が橋を渡るときには、一般の人々が通る橋板とは区別され、付け替えられる習わしがあった。そこで将軍専用の橋板を保管する場所を設け、橋場と呼ぶようになったという。桃園橋東側の地域が昭和四十二年(一九六七)まで、橋場町と呼ばれていたのも、この橋場によるものだ。