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幕府の初期海防施設だった八丁堀
八丁堀の開発工事が行われたのは慶長十七年(一六一二)のことだ。銀座役所を駿府から京橋の南四町移転させる江戸築港工事に伴うもの、あるいは幕府は西国諸大名に助役を命じて、通船の便利を確保しようと堀の開削を行っているが、八丁堀のその中のひとつであったといわれている。名前の由来は、海口より長さ八町(約八百八十メートル)の堀であったこと、もしくは後述する八丁堀舟入りの水路の長さが八丁(約八六四メートル)あったことによる。
新港地としてできた八丁堀には、多くの寺が移ってきた。寺町を形成し、八丁堀寺院町と呼ばれる時代もあったが、寛永十二年(一六三五)に芝と浅草への移転を命ぜられ、明暦の大火(明暦三年・一六五七)後は、諸寺院の大半が八丁堀から姿を消した。
寺院の移転と入れ替わるように八丁堀の地に置かれたのは、町奉行や与力、同心の組屋敷だ。おそらく元和年間(一六一五~一六二四)の頃からであろう。とりわけ八丁堀に住む与力と同心は町奉行の支配下に置かれたため、それぞれ町与力、町同心と呼ばれた。彼らは八丁堀に屋敷を構えていたため、俗に「八丁堀の旦那」「八丁堀御役人衆」などと呼ばれ、町奉行所の政務を分担し、主として警察的職務を担当していた。
元禄年間(一六八八~一七〇四)以降は、八丁堀には約三百人の組屋敷が置かれ、与力には三百坪、同心には百坪の邸地が与えられていた。が、薄給を理由に同心らは酒屋や米屋など商人に、与力は儒者や医者などに邸地の一部を貸すようになったという。そのため、町与力は二百石、町同心は三十俵二人扶持と表向きの収入は少なくとも、町方などからの付届けも相当あり、地代を合わせれば実収入はよかったに違いない。
初期の江戸図には、八丁堀の海岸線に突出した部分が描かれている。そう、八丁堀舟入りだ。江戸湊の沖合いに到着した船の入湊路を二本の堤防で特定する役目を担っていた。つまり、この八丁堀舟入りを通らなければ入港できない仕組みで、いわば港湾防備施設を兼ねていた。南側の堤防には鉄砲洲と呼ばれた鉄砲の射撃場が置かれ、北側の突堤脇には幕府の海軍長官だった向井将監の屋敷が配置されていた。これらも言うまでもなく、江戸湊の防衛目的による。ただし、明暦の大火後には、八丁堀舟入りは埋め立てが行われ、突出部の周囲は陸地化され、八丁堀水路だけが残るようになった。
さて、八丁堀七不思議のひとつ「女湯の刀掛け」を紹介しておこう。江戸の銭湯は武士も利用したため、二階に刀掛けが置かれていた。当然、女湯には置く必要がなかったのだが、八丁堀の銭湯では女湯にも刀掛けが置かれていたという。町同心たちが混雑を避け、女性は忙しくてやってこれない朝に女湯を利用する習慣があったからだ。八丁堀特有のことであった。